平成16年度一祐会総会(仙台)での講演
「歴史の東北、未来の東北」
講師 : 福島県立博物館名誉館長・東北大学名誉教授 高 橋 富 雄 氏
平成16年5月15日(土) 「ハーネル仙台」
宮澤賢治は昔は風変わりな人という印象だったが、今は大作家と位置付けられている。生前刊行された唯一の童話集『注文の多い料理店』という本の広告チラシを賢治は書いたが、この広告文以上に歴史的大文章は無いと考えて、研究されている学者、作家、文豪と呼ばれる人達が、何千、何万という文章を書いているが、およそこのちらし広告文ほど圧縮された名文は無い。 イーハトヴは一つの地名である。 という言葉で始まるが、このイーハトーヴというのは賢治が作った言葉である。イーハトーヴ、誰もこんな言葉を聞いたことはなかっただろう。大人が見ると空想の世界のように聞こえるだろう。賢治はちらしの中で次のように書いている。 |
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より良い世界を作るための創造的提案、未知の世界に対する脅威を賢治は指摘する。未知はみちの奥に通ずる。コロンブスやバスコ・ダ・ガマというヨーロッパ人は未知の新大陸、新世界を求め、発見した。その第三世界は今や発言力を増し、第三世界の動向が世界を左右するようになってきた。日本ではまだみちのくの人の発言が日本を左右するまでには至っていない。理想郷としてのユートピアという言葉は今、感動を呼ばない。 賢治は言う。この新しい創造的世界は無邪気なものに見えるかもしれない。既成概念にとらわれて物事を断定的に決めつける人だけが、この創造的世界を見ることができない。これは都会からの提案ではない。田園から、大地からのものである。日光、緑とともにこれを贈る。21世紀においてこそ生きる予言のような言葉である。 ユートピアという言葉が感動を呼ばない、夢のない言葉であるのに対して、イーハトーヴとは、文学とか詩のようなものに造詣が深い人だけが感動するもの。その意味で谷川徹三の捉え方は的確である。彼は「縄文的原型と弥生的原型」を日本の美の原型と考える。縄文的伝統・精神は8千年から1万年続いたウラの日本文化と言えるものであるのに対して、弥生時代はたかだか5百年、しかしこれは今日の日本文化の根底にあるものだ。この時代に米作り、鉄器文化が始まった。弥生文化はオモテの日本文化と言える。平安朝の終りと今の東京文化は共に追い詰められた袋小路にある。この危機を救うものは縄文的原型であると言いたい。日本文化を捉える時にこれ以上的確な視点はない。戦後日本は高度成長を遂げた反面、今や危機に瀕している。近代的弥生文化の状態だ。しかし、谷川徹三が言い残した、あるいは取り残したものがある。縄文文化も弥生文化も日本列島全体を覆った文化という考え方で、これは違う。北九州に大陸からの渡来人が大挙流入し、弥生文化が始まった。すなわち弥生文化は西日本の文化であり、北九州、大和の文化でこれが東へ北へと広がったものだ。これに対し縄文文化は北海道、千島から沖縄まで、隅から隅まで覆い尽くした文化だ。これをプリミティブと考えるべきではない。儒教文化〜仏教文化〜近代文化と文化は変遷しても、近代文化など高々100年だ。これからの日本文化は2000年以上前の文化をどうやって植え付けて行くべきかと考えたい。それは未来型の縄文文化、すなわち大地に根ざしたものでなければならない。縄文の円筒土器文化圏は、北海道中部から東北地方北部の範囲に限られており、その遺跡は巨大な集落を構成することで知られている。その代表の1つが青森市三内丸山遺跡である。この遺跡では、8百件以上の竪穴式住居が発掘され、高床式建物も数百以上が検出された。すなわち縄文文化が最も栄えたのは今の青森県であった。究極の理想郷として栄えたのが北東北であるというのは今や定着した学説だが、谷川論は縄文文化の中心を東北と捉えていない。三内丸山遺跡の発見は考古学に大ショックを与えた。リンゴ箱で4万箱もの土器が発見され、五百年に渡って栄えたようだ。これはもはや縄文文化を素朴とか原始的とか捉えるべきではない。中国や欧州の研究者達はJOUMONという文化を世界史の中に位置付けるべきだと言っている。 日の本というのは蝦夷の国という意味だ。金田一京助は@日本国家(大和)とA蝦夷の日の本を分けて考えた。中国の古文書では日の本の国と倭国(大和の国)がひとつになって日本国になったと書かれている。21世紀の日本を作り直すのには、みちのくに:イーハトーブの考え方を浸透させて行くことである。 宮澤賢治に関する出版物→クリック 西行の歌・・・「陸奥(みちのく)のおくゆかしくぞおもほゆる壷のいしぶみ外の浜風」(山家集) |
2004年5月20日の毎日新聞『雑記帳』というコラムによると、文化庁は宮澤賢治にゆかりのある岩手県内の数ヶ所を名勝として一括指定する準備を進めているそうだ。このような試みは初めてだそうだが、現存する山や森などが作品の中に多数登場することから生まれたアイデアとのこと。滝沢村の鞍掛山や、仲間と農作業した花巻市の羅須地人協会跡地などが挙がっている。「イーハトーブ(理想郷)」と呼んで岩手の地をこよなく愛した賢治。指定が成れば開発が規制され、イーハトーブが長く保たれることになる。 |
田園と七ツ森、奥に岩手山 |
イーハトーブの風景地 その後の結果を受けて追記・・・文化庁は宮澤賢治にゆかりのある岩手県内の数ヶ所を名勝として一括指定するよう平成16(2004)年11月に出された答申を受け、平成17(2005)年3月2日、イーハトーブの風景地(ふうけいち)として下記6ケ所を名勝指定しました。 |
訃報 |
上記講演された東北大学名誉教授・福島県立博物館名誉館長・元盛岡大学長・高橋富雄氏は、2013年10月5日午前8時53分、老衰のため仙台市太白区の自宅でご逝去されました。享年92歳。北上市出身 平成16(2004)年の一祐会総会(仙台)には、電気電子情報科会東京支部から澤藤副支部長(当時)が出席しました。 高橋氏は東北大法文学部卒。同大教授を経て1985年盛岡大文学部長・教授、1990年10月から1998年3月まで同大学長。福島県立博物館長なども務められました。 平泉文化をはじめとする東北古代史研究の草分けとして、一貫して地方に根差した視点から歴史を見つめ続けたことで知られています。 平泉研究を始めたきっかけは、中央志向で進んできた終戦時の学問への反省が出発点にあったといい、「日本史の中で地方の可能性を最大限に発揮した」として光を当てた方です。 (2013/10/08) |