草刈先生ご生誕100年記念胸像除幕式・贈呈式・追悼供養

平成15年度科会総会並びに草刈先生の思い出を語る会


2003年6月27日(金)、母校、岩手大学工学部1号館玄関ホールに設置された草刈先生の胸像前で、除幕式と贈呈式が行われました。東京支部の元支部長・吉田登美男さん・高橋章さんが草刈先生ご生誕100年記念事業実行委員会・胸像建立委員会の副委員長として奔走されました。
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胸像を寄贈されたのは佐藤利三郎氏です → クリック

2003年6月29日(日)、平成15年度科会総会は仙台で開催、東京支部からも寺井支部長他30名近くの方々が参加しました。
草刈先生の菩提寺:輪王寺(http://www.rinno-ji.or.jp/)での追悼供養の後、会場を仙台駅前のホテルメトロポリタンに移して、科会総会、草刈先生の思い出を語る会、草刈先生ご生誕100年記念懇親会が行われました。参加者は120名でした。
追悼供養と思い出を語る会 → クリックPDFファイル



ページTopへ 草刈先生の胸像除幕式と贈呈式


ひ孫さんによる胸像除幕


草刈先生の胸像・・・工学部1号館玄関ホール

草刈 遜 先生 御経歴

明治37年1月3日
大正10年3月
大正13年3月
昭和2年3月
昭和2年3月31日
昭和6年9月30日
昭和8年3月31日
昭和10年12月31日
昭和11年7月29日
昭和14年7月31日
昭和25年4月1日
昭和28年7月1日
昭和34年1月
昭和35年1月1日
昭和41年11月10日
昭和42年4月1日
昭和43年7月5日
  宮城県仙台市連坊小路で誕生
宮城県仙台市第一中学校卒業
第二高等学校卒業
東北帝国大学工学部電気工学科卒業
東北帝国大学助手に任用、工学部電気工学科勤務
東北帝国大学講師
仙台高等工業専門学校講師嘱託
東北帝国大学通信研究所に従事
東北帝国大学助教授
盛岡高等工業学校教授、同電気科長
岩手大学工学部教授、東北大学兼任
岩手大学評議員
東北大学より工学博士号を取得
岩手大学工学部長
産業教育80年記念教育功労者として教育功労賞を受賞
岩手大学工学部長に再選
御逝去(64歳7ヶ月)
従三位勲三等旭日中授賞


ページTopへ 輪王寺での追悼供養

追悼供養の集合写真
 

追悼供養(輪王寺
 

追悼供養(輪王寺
 

墓参り

ページTopへ 平成15年度科会総会
並びに
草刈先生の思い出を語る会

仙台駅前のホテルメトロポリタンにて

今年の科会総会は仙台で開催、東京支部からも寺井支部長他30名近くの方々が参加
 
ページTopへ 草刈先生ご生誕100年記念懇親会

太田原会長挨拶
 

名司会者
 

思い出一言・佐々木喜八郎さん(S28電気)
 

思い出一言・千葉次郎さん(S30電気)
 

思い出一言・佐藤一男さん(S35電気)

懇親会にて・左から電気16年組の阿部 源祐 さんと富士 岳 さん、寺井支部長
 

左から前東京支部長・長岐さん(S34)と元東京支部長・吉田さん(S28)
 

齋藤健さん(S38)・飯岡圭輔さん(S33)

立っているのは事務局の歳弘 健さん(電気33年)  奥は斎藤 弘先生
 

梅良之さん(S42)を囲むH14・15の精鋭

ページTopへ 草刈遜先生の思い出と胸像建立
              胸像建立委員長 佐藤利三郎

 私は昭和14年(1939)に盛岡高等工業学校(昭和19年盛岡工業専門学校に改称)の一回生として入学しました。高等工業学校は中津川の辺りの夜間中学の校舎を借用して開校され、続いて上田の現校地が整備され、校舎及び同胞寮が新設されました。私はその間の二年半、草刈先生から直接研究教育の指導を受けました。岩手山や姫神山、そしてその間を流れる北上川、中津川と恵まれた自然環境の下で伸び伸びとした学生生活でした。
 草刈先生は一週間毎に仙台から来られ、電磁気学、交流理論、変圧器、同期機、誘導機等の電気の専門科目の講義を休みなくなさいました。学生も毎学期の成績が廊下に掲示されることもあって、熱心に励んだものです。先生はよく野や山に散策を楽しまれ、私も小岩井、大更などには度々お供させていただき、たくさんの楽しい思い出となっています。
 我々学生は先生の言に従って生活してきたわけで、我々が今日あるのも本当に先生のお陰と、今でも草刈先生には感謝をするばかりでございます。

草刈先生の胸像と寄贈した佐藤利三郎氏

 さて、草刈先生は旧制二高より東北大学工学部電気工学科に入学され、大正15年(1926)にご卒業になり、直ちに同学科の助手に採用され、順調に昇任されました。当時の電気工学科は八木秀次、抜山平一両先生をはじめ東京大学出身の先生がおられましたが、昭和6年頃八木先生など多数の先生が当時開設された大阪大学等に移られ、教官定員が空きましたので、東北大学出身の先生も教授に任用されました。然し草刈先生は運悪く定員が不足し、昇進されませんでした。抜山先生は定員増と学生増に尽力なさいましたが、文部省並びに他学科の反対で実現しませんでした。草刈先生は最古参の助教授としてご苦労を続けられました。
 当時の東北大学は東大とは反対に弱電の分野に研究を集中させ、八木アンテナ、マグネトロン等、世界に冠たる成果を上げておりましたが、八木、抜山両先生は、弱電の分野の研究教育にあまり凝りすぎると将来問題が生じることを心配されて、強電にも力を入れ、草刈先生を次の中心に据えるべく計画されていたようであります。
 そのような時期に盛岡高等工業学校が創設されることになり、東北大学工学部がその世話をすることになり、学校長になられた金属工学科の石原富松教授をはじめ、ほとんどの教官が東北大学から来られました。草刈先生はいつまでも助教授では役不足であり、将来の校長候補としてもと新設の高等工業の電気工学科の科長として就任されました。あわせて鎌田徳美先生(仙台高専)が助教授として赴任され、照明工学、基礎実験、実習、製図等を担当されました。電気工学の専門課目は二人の先生で行われましたが、英語の専門語がほとんどである講義で、帝国大学の講義と同程度で格調高く難解でしたが、意気盛んな両先生の熱意に打たれ、学生たちも一生懸命頑張っていたことを思い出します。
 草刈先生は学校の伝統を育成すべく同窓会を作られました。それが電気科会です。先生は東北大学にも先に電気科会を作られ、その幹事をなさっておられました。この会は会費は取らず、結婚したときに寄附(5円)をすることになっていて、これも先生のご発案だったようです。このように先生は東北大学と岩手大学の両大学の電気系学科の中心となられ、毎週毎の仙台、盛岡の生活もご不便であったことと思いますが、そのような生活を約40年続けられました。
 盛岡工業専門学校は大学に昇格し、岩手大学となりました。そして電子工学科、情報工学科が増設され、発展してきましたが、その創立の理念は草刈先生の方針に沿ったものでありました。東京大学は強電、東北大学は弱電にその個性を発揮しましたが、岩手大学電気系学科はその両者に従わず、独自の道を進んでおります。現在の岩手大学の先生方はその理念に従って、強電、弱電をすべて包含し、更に環境、材料等、工学、理学、医学の一部と重なる新しい学問分野を作りつつあります。卒業生の一人として何時の日かノーベル賞受賞者が誕生することを望んでいるところでございます。
 今年(2003)1月に草刈先生生誕百年祭の記念事業実行委員会の会議が開かれ、多くの卒業生が出席しました。実行委員会役員、記念事業の項目など審議されました。その席で、@草刈先生の墓前で百年祭を行う A草刈賞を創設する Bその他が承認されました。私は先生の胸像を製作し、それを岩手大学に寄贈し、学生とともに百年祭を行うという案を提案しましたが、実行委員会からの承認を得るには少々の困難がありました。卒業生は先生の胸像に期待していたとは思うのですが、経済状態が悪く、皆様の懸念も当然でした。しかし私は再度胸像建立を提案させていただき、承認を得て、副委員長の吉田登美男、高橋章、委員の柏葉安兵衛、久保田賢二の各氏と共に委員長佐藤利三郎の布陣で実現を目指すことになりました。
 1月28日に東京の吉野毅邸を副委員長と訪れ、胸像製作を依頼し、4月29日には草刈先生のご子息の岡本、草刈の両氏と共に吉野邸を訪れ、胸像を見ていただき、意見を述べてもらいました。5月28日に盛岡に行き、岩手大学長に胸像寄贈の了承を得、6月27日の除幕式、胸像贈呈式、「学生諸君へ草刈先生を語る会」、記念祝賀会などの行事が決定しました。
 6月27日当日、私は風邪を拗らせて入院し、記念行事には出席することが出来ませんでしたが、胸像は無事完成し、大学に納められました。
 ご協力いただいた皆様には心から御礼申し上げたく存じます。費用の方は、言い出しっぺの私が胸像を負担させていただき、台座は記念会が負担いたしました。
 草刈先生がこの胸像をご覧になったら、どう思われたでしょう。先生はきっと賛成されなかったことでしょう。然し、ご家族も了承され、最後には卒業生も心から祝福してくれたことを思うと、先生から多くを学んだ私としては、「先生は運の良かった先生である」ことを証明出来たような気持ちがしてくるのです。最後に岩手大学工学部電気系に係わる先生、卒生、学生、すべての人々に幸多かれと祈念して、報告とさせていただきます。