岩手大学の雪景色(2024年1月)
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新幹線ストップ
2023年11月30日に冠雪した風景を紹介しましたが、その後記録的な暖冬で、盛岡市内中心部は雪のない光景が続きました。そして2024年1月23日(火)、JR大宮駅南の与野近辺で午前10時前、上りの北陸新幹線「かがやき504号」が通過した際に架線が切れて停電が発生しました。列車のパンタグラフ2ヶ所や車内の窓ガラス1枚などが破損しました。これで東北・上越・北陸新幹線の運転が停まりましたが、大宮〜東京間で停止している車両を動かして乗客を降ろさなければならないため、通電したままで復旧作業を行っていたところ、作業員の感電事故が発生したこともあり、東北新幹線は東京−仙台間、上越・北陸新幹線は東京−高崎間のいずれも上下線で運転を見合わせ、結局23日は終日運休となりました。この日盛岡は夕方から雪となり、24日朝は久し振りの白い光景の中、始発から各新幹線は運転再開しました。
当HP管理人は1月24日(水)の経営協議会出席のため盛岡つなぎ温泉に前泊予約し盛岡へ向かって、途中磐梯熱海温泉に立ち寄り、磐越西線磐梯熱海駅で新幹線ストップを知りました。郡山駅からやむを得ず在来線乗り継ぎで盛岡に向かい、東北本線で郡山11:41→12:27福島駅着、12:39→13:12白石駅着、13:16→14:04仙台駅着。仙台駅から新青森間折り返し運転との情報ながら、一番早いはやぶさで18時過ぎとのこと、直ちに盛岡まで東北本線乗り継ぎ決断、仙台駅14:34→15:18小牛田駅着、15:35→16:22一ノ関駅着、16:27発盛岡駅行きは2両編成→16:31山ノ目→16:35平泉→16:41前沢→16:46陸中折居→16:51水沢→16:57金ケ崎→17:01六原→17:07北上→17:11村崎野→17:18花巻→17:24花巻空港(東北本線)→17:29石鳥谷→17:34日詰→17:37紫波中央→17:41古館→17:45矢幅→17:50岩手飯岡→17:55仙北町→17:59盛岡駅着、ここでビックリ、なんと6番線に着いたら、向いの田沢湖線8番線に「秋田新幹線こまち号」が停車してるではありませんか!見たことのない光景に遭遇して東北本線から下車した乗客たちがスマホでパチパチ写真を撮っています。赤白の秋田新幹線こまち号はいつも高架の新幹線ホームで、緑色の東北新幹線はやぶさ号と連結するので、下の、というか地面の在来線ホームでは見かけないからです。
この時期は一番寒い時期です。日本の最低温度記録は、明治35年(1902年)1月25日に旭川で観測された-41℃で、122年たった現在でもまだこの記録は更新されていません。この寒さで悲劇が起きました。厳冬の八甲田に挑んだ雪中行軍で、210名中実に199名が死亡するという、日本の山岳遭難史上、最悪の記録として残った事件です。気象学者でもあった新田次郎は、この遭難を「人災」の面からとらえてドキュメンタリータッチの小説『八甲田山死の彷徨』を書き下ろしました。東宝から映画化もされ、北大路欣也の神成大尉、高倉 健の福島大尉他、豪華キャストを揃え、厳寒の地で2年にわたりロケした日本映画史上に残る名作です。
日露開戦を間近に控え、八戸に上陸したロシア軍を迎え撃つ耐寒訓練の必要性を痛感していた大日本帝国陸軍は、第八師団第四旅団に属する青森第五聯隊と弘前第三十一聯隊に、競わすように雪中行軍を命じました。小隊編成で、弘前から八甲田山を経て青森までの弘前→東→八甲田山→北の行程を進む福島大尉率いる弘前第三十一聯隊。これに対して、神成文吉大尉率いる中隊に、大隊本部が随行するという変則編成で、青森→南→八甲田山→西→弘前と逆ルートを進む青森第五聯隊210名は1月23日の朝6時55分、穏やかな天候の下、青森聯隊兵営地(現青森高等学校)を出発しました。小峠に到着したのは午前11時30分でしたが、この頃から天候が急変し、風雪強く寒気加わり、食糧は凍結し、かろうじて昼食をしました。日本海から津軽平野を縦断し雪を含んだ南西風と、陸奥湾からのシベリアおろしが八甲田の峰々を互いに回り込み、ぶつかり合い、乱気流を発生させる悪天候でした。幹部たちは撤退を協議しましたが、大隊長の山口少佐(東京出身)が前進の命令を発しました。この行軍の指揮官は神成大尉でしたが、階級が上の大隊長が発した命令には否も応もありませんでした。1月24日、道を失った聯隊は3分の1の兵士を失いました。1月25日も吹雪は続き、次々に兵は倒れて行きました。1月26日には、生き残っているのはわずか40人弱となっていました。救援活動は24日には始まっていたのですが、やっと見つかったのは27日になってからでした。最初に発見されたのは、雪の中で仮死状態のまま立っていた後藤房之助伍長で、軍医の手当てによって回復した後、雪中行軍隊の状況がその口から伝えられました。それから捜索が進められ、雪の中に倒れている兵士が2人発見されたものの、激しい吹雪に阻まれ、本格的な救援活動は28日からとなりました。大人数の救援隊が組織され、捜索が行われました。北海道から寒さに強いアイヌの人たちも捜索に加わりました。雪中行軍隊210人のうち、生存したまま救助されたのは17人のみで、さらにそのうち6人は病院に入院後、治療の甲斐なく死亡し、最終的に生きて帰ることができたのはわずか11人でした。生き残った者たちの中でも、8人は凍傷のために手足を切断することになりました。生存者は2月2日以降発見されることはなく、そこからは遺体の捜索が行われたのですが、雪山での捜索は限界があり、二重遭難の可能性が強いため、最後の死体が見つかったのは雪も解けた5月28日だったそうです。このホームページ管理人の大叔父さんは5月10日に見つかったと記録されています。
将兵たちを埋葬した幸畑墓苑は八甲田への登り口にあり、松林に囲われた芝生の墓地です。正面、一段と大きい墓標は山口大隊長。その両脇に将校の墓標が並びます。兵士達の185の小さな墓石は大隊長に向かってきちんと立っています。死しても階級の差は厳然として示されるのが軍隊の世界なのだと思い知らされます。下級兵の死亡率に比べて将校の死亡率が格段に低かったのは、上官を守った兵士の行動を示しています。実際雪中から発見された死体では上官を守るように死亡している兵士の姿に救難捜索隊の陸軍兵士たちも落涙したと記録されています。この暗さを払拭するように陸軍はこの事件でひとりの「英雄」をつくりあげました。神成中隊長の命をうけ山麓に遭難の一報を伝えた後藤房之助伍長・・・遭難現場の馬立場に全身が凍り付き佇立する銅像が立っています。なお新田次郎は山口少佐の死を拳銃自殺としていますが、資料館の展示によれば、弘前大学医学部の鑑定で、心臓が弱っていたところに高濃度のクロロフォルムの注射で心臓が止まったのだろうとされました。陸軍が責任回避のため、余計なことをしゃべってもらっては困ると薬殺したのだろうとされています。
盛岡駅から岩手大学へ歩いて向かうとき、旭橋を渡り左折すると、宮澤賢治像や光原社のある盛岡の人気スポット材木町です。よ市で有名ですね。この通りの右手奥にある「永祥院」というお寺には、この行軍で無くなった岩手の兵士を弔う墓標が並んでおり、その石碑の数の多さに絶句します。なぜ厳冬期の青森でこれほど多くの岩手の若者が死んだのか?死者は圧倒的に岩手県出身者が多く、次いで宮城県でした。当時は家を継ぐのは長男で、次男以下は家を出て行くので、最も就職するのに安定していたのは軍隊だったのです。東北の陸軍の本営は弘前なので、青森県人や秋田県人は弘前入営が多く、青森入営は岩手や宮城の若者だったようです。